楠木正成が下赤坂城の詰め城として築いたのが、山城の上赤坂城です。![]() ![]() 登城道入り口 ![]() 登城道 途中木戸(城戸)跡があったり、喰い違いになったりしていて、楠木正成の築城技術の高さを感じました。 ![]() 三の木戸跡 ここを歩いているのは私だけで、鳥の鳴き声と私が枯葉を踏むザクッザクッという音しか聞こえません。 のはずですが、気が付けば足音の他に枯葉のガサッガサッという音がしていました。 経験上音の主は想像できるのですが、とにかく本丸目指して進んで行きました。 二の丸に至る途中に「そろばん橋」と名付けられた大きな堀切がありました。 ![]() そろばん橋の堀切 ![]() 二の丸跡 これだけのものを築城するには、かなりの時間と労力が必要です。 楠木正成はかなり前から戦いを予想していたのではないかと思うほどでした。 そして標高350Mの本丸に到着。 ![]() 本丸にある上赤坂城址碑 本丸からは河内平野が一望できました。 ![]() 「この一面を鎌倉幕府軍に囲まれたていたんだな」と思いながら、眺めていました。 しばらく一人で佇んでいると、木々の間に大きな補虫網が見えてこちらに向かってきました。 補虫網の主は子供で、後からお父さんもやって来ました。 私がその子に「何か虫おったん?」と聞くと、「うん」と言って虫かごを見せてくれました。 なんとそこにいたのは私の苦手な爬虫類に属するトカゲでした。 「それ虫ちゃうやん、しっぽ付いてるし・・・」と思ったのですが、子供相手に大人げないし、また時間もないのでそれを機に本丸を後にしました。 やはり先ほどの音の主はトカゲだったようです。 本丸直下にはいくつか曲輪があって、連郭式になっています。 築城された頃は石垣の技術はありませんが、土台の造りはしっかりしています。 その内の1つの曲輪では発掘調査中のようでした。 籠とショベルが放置してあったので、失礼して籠の中を拝見すると、かわらけの破片が見えました。 ![]() 本丸直下の曲輪跡 ![]() 出土品。(楠木党のものでしょうか) 本丸からは来た道を戻ったのですが、途中金剛山方面に向かう分岐点がありました。 楠木正成が築いた支城網の連絡道かと思い、そちらにも行ってみました。 ところが枯葉に覆われていて道がはっきりせず、何度も立ち止まって道を確認しながら進むような感じでした。 すぐ横は深い谷になっており、滑落すると生還は期しがたいと思われます。 15分位歩いても城跡らしきものはなく、あまりにトカゲが多いのでやむなく引き返しました。 〜城跡データ〜 【所在地】大阪府千早赤阪村桐山 【築城主】楠木正成 【築城年】1331年 【遺構】曲輪、土塁、堀切、虎口など 【関連城跡】下赤坂城、千早城 鎌倉幕府軍との戦いで下赤坂城が陥落した後、楠木正成はここ上赤坂城と千早城を築城しました。 得意の山岳ゲリラ戦法で、他にも金剛山麓に支城網を築き、吉野の護良親王とも連絡をとっていたようです。 1332年に鎌倉幕府軍から下赤坂城を奪還すると、平野将監と弟の楠木正季が上赤坂城を守っていました。 1333年には鎌倉幕府軍が5万人で上赤坂城を包囲、楠木党は300人ほどの人数で籠城戦を戦っています。 少数ながら楠木党も得意のゲリラ戦法や奇策によって抗戦したのですが、最後は水の手を断たれて落城してしまいました。 楠木正成はさらに千早城で籠城戦を続け、千早城・上赤坂城での善戦と後醍醐天皇の隠岐脱出により、流れは鎌倉倒幕へと一気に進んで行きます。 実際に上赤坂城を訪れて、楠木正成の天才的な戦術もさることながら、戦国時代よりも200年も前に、この高い築城技術があったのかと感心しました。 とても急に築造した城とは思えず、楠木正成はかなり以前から鎌倉幕府倒幕に備えていたのではないかと思うほどです。 実際に後醍醐天皇は以前より楠木正成に注目して接触があったとする説もあり、上赤坂城がそれを裏付けているかも知れません。 楠木ファンのみならず、本丸から河内平野を眺めて、太平記の時代に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。 (上赤坂城の登城道は、狭い上に少し道が悪いので、軽登山靴かトレッキングシューズを履いた方がいいかも知れません) |
| << 前記事(2008/11/01) | トップへ | 後記事(2008/11/03)>> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|
| << 前記事(2008/11/01) | トップへ | 後記事(2008/11/03)>> |