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help リーダーに追加 RSS 桜井の訣別(大阪・島本)

<<   作成日時 : 2008/11/04 06:40   >>

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大阪府島本町にある古代律令制時代の「桜井駅跡」、ここは太平記の中に出てくる「桜井の訣別(わかれ)」の舞台でありました。
「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ・・・」の唱歌でも有名かと思います。
IMAG0071.jpg
「桜井駅址」の碑

現在はごく普通の公園になっていて、錆びたブランコとすべり台が置いてあるだけでした。
しかしながら公園内にはいくつかの碑が建っており、碑文は錚々たる揮毫です。

IMAG0075.jpg
「楠公父子訣別之所」の碑。
乃木希典陸軍大将の書。

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楠木正成・正行父子の像。
「滅私奉公」は近衛文麿公爵の書

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明治天皇御製「子わかれの 松のしつくに袖ぬれて 昔をしのぶさくらゐの里」
東郷平八郎元帥海軍大将の書。


〜史跡データ〜
【所在地】大阪府三島郡島本町桜井
【交通アクセス】JR京都線、島本駅すぐ
【関連城跡】下赤坂城上赤坂城千早城
【関連史跡】湊川神社(神戸)
2007年4月訪問


1336年、足利尊氏は後醍醐天皇の建武政権に反旗を翻し、九州の大宰府を出て京都を目指し出陣しました。
その兵力は水陸合わせて3〜4万人とも言われています。

一方後醍醐天皇方には新田義貞・楠木正成がいました。
新田義貞は足利軍の攻撃により窮地に陥り、楠木正成は息子正行(まさつら)と共に新田義貞救援のため兵庫へと向かいます。

出陣の途中、楠木正成は息子正行に対し、自分が討ち死にした後で足利尊氏の天下となっても、天皇方として最後まで立て籠もって戦うよう言い含めました。
そして息子正行と3,000の兵を本拠地の河内に帰し、自分はわずか500の兵を引き連れて、足利尊氏を迎え撃つべく、神戸の湊川へと出陣して行きました。
その楠木正成・正行父子の決別の地が桜井です。

楠木正成は、すでに討ち死を覚悟していたことでしょう。
しかしながら湊川での戦いぶりを見る限り、この天才戦略家はあくまでも勝ちに行ったのではないかと思います。
少数の主従で当たった方が勝機ありと見て、あえて息子正行と3,000の兵を河内に帰したのではないかと・・・
そう考えるのは、あまりにも楠木ひいきでしょうか。



「桜井の訣別(わかれ)」
作詞:落合直文 作曲:奥山朝恭

1.
青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 
木の下蔭に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上(え)に 散るは涙か はた露か

2.
正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん 彼方の浦にて討死せん
いましはここ迄来つれども とくとく帰れ故郷へ

3.
父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん この正行は年こそは
未だ若けれ 諸共に御供仕えん死出の旅

4.
いましをここより帰さんは わが私の為ならず
己れ討死為さんには 世は尊氏のままならん
早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国のため

5.
この一刀(ひとふり)はいにし年 君の賜いし物なるぞ
この世の別れの形見にと いましにこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまたん

6.
ともに見送り見返りて 別れを惜しむ折からに
またも降り来る五月雨の 空に聞こゆるホトトギス
誰か哀と聞かざらん あわれ血に泣くその声を


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