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阪急京都線高槻市駅から南へ歩いて行くと高槻城跡があります。 「北大手」や「大手町」の地名が残っており、高槻城跡は「しろあと公園」として整備されていました。 しかしながら、公園には城の遺構らしきものは全くと言っていいほど見当たりませんでした。 ![]() 石垣がありますが、どう見ても近年復元されたものです。 さらに礎石のようなものがありましたが、後から置いた庭石だと判明。 古城図をみると、かなり大きな城郭だったようです。 ![]() しかしながら、現在の街並から城郭を比定するのは困難でした。 ![]() 三の丸のあった場所 ![]() 二の丸のあった場所。野球場になっていました。 本丸のあった場所は現在槻の木高校の敷地になっています。 ![]() しろあと公園に隣接する槻の木高校の敷地 高校の横に土塁のようなものがありましたが、城の遺構かどうかはわかりませんでした。 ![]() 土塁跡(?) 現在マンションの建つ三の丸跡には、城跡から出土した石垣の石が目立たないように置いてありました。 ![]() 出土した枡形門の石垣石。 これが唯一の遺構とも言えるでしょうが、逆によく見つかったものだと感心します。 〜城跡データ〜 【所在地】大阪府高槻市大手町 【交通アクセス】阪急京都線、高槻市駅徒歩10分 【築城主】近藤忠範? 【築城年】10世紀末? 【主な城主】入江春継、和田惟政、高山右近、 【遺構】枡形門石垣石、門跡、土塁跡?、天主堂跡(碑) 10世紀末に近藤忠範が築城したのが高槻城の始まりと言われていますが、確証はないようです。 戦国時代に入ると、三好三人衆の1人である三好長慶の支城となり、入江春継が城主となりました。 その後は織田信長の支配下となり、和田惟政が入城、城郭の改修を行っています。 やはり高槻城と言えば、高山右近。 現在は高山右近が建てた天主教会堂の跡を示す碑が建っています。 ![]() さらに高山右近と言えばキリシタン大名、キリシタン大名と言えば・・・やはり高山右近です。 実際に高山右近が高槻城主であったのは1573年からの12年間だけでした。 しかしその間に領民2万5千人のうち、実に7割の1万8千人がキリシタンになったと言われています。 当時の状況からすれば、すごい数字であり、高山右近の人柄が偲べます。 「キリシタン大名」という言葉の中には、矛盾と苦悩が感じられます。 高山右近もキリシタンながら、戦国武将であることに変わりはありません。 豊臣秀吉が明智光秀を討った山崎の合戦では、豊臣軍の先鋒として功績を挙げています。 その後の高山右近は、豊臣秀吉のバテレン追放令に対して改宗を拒否したため、領地を没収されていました。 そして徳川幕府のキリスト教禁教令により国外追放処分を受け、フィリピンのマニラでその生涯を閉じています。 しろあと公園内の片隅には、十字架を持つ高山右近像が今も城下町を見つめていました。 ![]() |
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