茨城県結城市にある結城城、現在は「城跡公園」として整備されています。![]() 本丸跡 本丸は切岸状の台地の上にあり、崖状の斜面が城跡であることを物語っていました。 また城跡公園から出たすぐの場所には空堀の跡がありました。 その幅を見ると、かなり深く掘られていたものだと思われます。 ![]() 関東の戦国史には必ず登場する結城城ですが、残念ながら城の遺構はほとんど残っていませんでした。 〜城跡データ〜 【所在地】茨城県結城市結城 【築城主】結城朝光? 【築城年】1183年? 【主な城主】結城秀康(徳川家康の次男、のち豊臣秀吉の養子) 【遺構】曲輪、空堀 結城城は1183年に結城朝光が築城したと言われていますが、確証はないようです。 結城城がその名を馳せることになったのは、1440年の「結城合戦」でありました。 結城合戦は1438年の「永享の乱」に端を発します。 関東公方の足利持氏が、室町幕府将軍の足利義教と争ったのが「永享の乱」でした。 この永享の乱で関東管領の足利持氏は、室町幕府軍に敗れて自刃しています。 その2年後の1440年、結城の城主である結城氏朝は、敗れた関東管領足利持氏の遺児、春王丸と安王丸を奉じて挙兵しました。 室町幕府の足利将軍は、すぐに結城氏の追討軍を派遣、結城氏朝の結城城を包囲しました。 堅固な結城城はなかなか落城せず、11ヶ月にも及ぶ長い籠城戦となります。 しかしながら籠城戦の末に結城氏朝は討死し、春王丸と安王丸もその後殺害されてしまいました。 結城合戦においては、10万の室町幕府軍に包囲されながらも、1年近く落城しなかった結城城です。 現在ではその堅固さを見ることができず、とても残念な思いがしました。 この結城合戦は「南総里見八犬伝」の冒頭に出てくるのですが、この時結城方として戦ったのが、里見氏初代の里見義実です。 里見義実は結城合戦の後に安房(千葉県南部)に流れ着き、白浜城に入って里見氏の初代となりました。 その後の結城氏は、佐竹氏・宇都宮氏と肩を並べる有力大名にまで復活し、1591年には徳川家康の子である結城秀康を養子に迎えました。 しかしながら結城秀康が越後に移封になると、結城城も廃城となっています。 1700年に徳川譜代の水野氏が入城して明治維新を迎えますが、官軍に攻められて再び落城し、廃城となりました。 |
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