私の自宅から最も近くにある城跡が国府台城です。![]() 自宅から見た国府台城遠景 江戸川を渡り、対岸の国府台城へと行きました。 ![]() 江戸川から見た国府台城の遠景。 おそらく国府台城よりも、「里見公園」と言った方が通りがいいかも知れません。 ![]() 城の遺構はほとんど残っておらず、全くとらえどころのない城跡です。 ![]() これは空堀でしょうか ![]() これも空堀なのでしょうか ![]() これは土塁かも知れません。 国府台城は「里見公園」となっていますが、築城は里見氏ではなく、太田道灌だと言われています。 里見氏の築城方法は、周囲を崖のように切岸状に削るのが特徴です。 北東側斜面にその跡が見られたのですが、国府台合戦に備えて里見義弘が改築したのかも知れません。 〜城跡データ〜 【所在地】千葉県市川市国府台(里見公園) 【築城年】1478年 【築城主】太田道灌 【遺構】土塁の一部 【関連城跡】小弓城、相模台城 城の遺構は残っていないものの、国府台城と言えば国府台合戦の舞台として有名です。 国府台合戦は、1536年の第一次国府台合戦と1564年の第二次国府台合戦の総称です。 いずれも関東制覇を狙う北条氏と、里見氏を中心とする房総連合軍が、江戸川を挟んで激突した戦いでした。 相模小田原の北条氏綱は、武蔵(東京都)を手中に収めると安房・上総・下総の房総地域への進出を図っていました。 房総の諸将は北条氏に対抗すべく連合軍を結成し、総大将に担ぎ上げたのが足利義明(小弓公方)です。 房総には里見氏を始めとして、武田氏や土岐氏など源氏の流れを汲む諸将が多く、その源氏の棟梁たる将軍家につながる小弓公方足利義明の元に結集しました。 この足利義明は鳴り物入りで総大将になったのですが、実はとんだ食わせ者でした。 1538年、房総連合軍は国府台城一帯に着陣し、江戸川の対岸から進軍して来る北条氏綱軍を迎撃する態勢をとりました。 北条氏綱軍は続々と江戸川を渡河して国府台に迫って来ましたが、これを目の前にしながら総大将足利義明は本陣を離れ、単騎で松戸方面の激戦地へと駈けて行ってしまいました。 全くの猪武者としか言いようがありませんが、結局足利義明は北条軍に囲まれて討死しています。 元々寄り合い所帯の連合軍にとって、総大将を失うことは、すなわち敗戦を意味しました。 房総連合軍は総崩れとなり、諸将は上総や下総へ続々と退却を始めます。 さすがの里見義堯も戦いに見切りを付け、殆ど戦うことなく安房へ退却せざるを得ませんでした。 結局足利義明の1人相撲で終わったのが、第1次国府台合戦です。 ![]() 国府台から見た江戸川。 現在対岸の柴又へは、「矢切の渡し」があります。 北条軍はここを渡って攻め寄せてきました。 渡河中の不利な体勢を攻撃することを里見義堯は主張しましたが、足利義明はこれを受け入れませんでした。この時点で里見義堯は戦いに見切りをつけていたようです。 ![]() 第1次国府台合戦で激戦となった相模台城(松戸)。 この付近で足利義明は討死しました。 時代は下って、北条氏は氏綱から氏康へと代変わりし、里見氏は義堯が引退して義弘へと代変わりしていました。 その北条氏康と里見義弘が同じ国府台で激突したのが、1564年の第2次国府台合戦です。 里見義弘を総大将とする房総連合軍6,000は、再び国府台で北条軍を迎撃する態勢をとりました。 北条軍は北条氏康以下、北条氏政・北条氏照・北条氏邦そして北条綱成といった錚々たる面々が16,000の大軍を率いて、江戸川対岸一帯(現在の葛飾区柴又から江戸川区小岩付近)に進出して来ました。 ![]() 国府台合戦当時、江戸川対岸は北条軍の「三つ鱗」の旗印で埋め尽くされたことでしょう。 北条軍の遠山綱景(江戸城主)や富永直勝(葛西城主)は先駆けして江戸川を渡り、国府台へと攻め上がって来ました。 これを見た里見軍は逃げるように退却して行きましたが、これは里見義弘の作戦でした。 勢いづいて国府台の急斜面を登ってくる北条軍を十分に引き付けた後で、里見義弘は一気に反撃に出ました。 この作戦は見事に的中し、北条軍は遠山綱景が討死して敗退を余儀なくされます。 数に劣るはずの里見軍を相手に、局地戦ながらまさかの敗戦を喫し、さすがの北条氏康も一時は全軍撤退を考えたようです。 一方国府台に引き上げてきた里見軍ですが、初戦の華々しい勝利、そして正月で寒いとくれば、熱燗の登場です。 こともあろうに夜は酒宴となって美酒に酔い、完全に無警戒でした。 (北条氏康を相手にあり得ない油断です) 初戦の敗退で意気消沈の北条軍でしたが、この好機を北条氏康が見逃すはずがありません。 夜間行軍で「地黄八幡」北条綱成を里見軍の背後へと回らせ、夜明けと共に一気に背後から襲いかかりました。 まだ酔いが醒めないうちに、防御が手薄な背後を襲われた里見軍は、ろくな戦いもしないままに大混乱に陥りました。 北条氏康はさらに好機を逃すことなく、一気に全軍を渡河させて攻勢に出ました。 浮き足立った里見軍は名立たる武将を次々に失って、大敗北を喫しています。 北条氏康vs里見義弘(房総連合)の第二次国府台合戦で、里見軍は5,000の将兵を失いました。 その慰霊碑が江戸時代の1829年になって建てられ、国府台城の片隅に並んでいます。 ![]() 里見軍には里見弘次という武将も参戦していましたが、この戦いで討死してしまいました。 里見弘次の末娘は、父の霊を弔うべく安房から国府台にやって来ましたが、凄惨な光景を目にして、石にもたれたまま息絶えてしまったそうです。 その石からは夜毎に泣き声がするので、「夜泣き石」と呼ばれていました。 ![]() 夜泣き石 通りかかった1人の武士が供養してからは、泣き声は止んだそうです。 二度の激戦が展開された国府台城ですが、現在は桜の名所となっており、春になると城跡が桜で埋め尽くされます。 |
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