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国府台城と相模台城のある江戸川付近は、房総の歴史には必ず登場する「国府台合戦」の舞台でもあります。 国府台合戦は1538年の第1次国府台合戦と、1564年の第2次国府台合戦の2回の合戦の総称です。 いずれも房総の命運を賭けた乾坤一擲の戦いでありましたが、その結末はあっけない幕切れで終わりました。 相模小田原の北条氏綱は、武蔵(東京都)を手中に収めると、安房・上総・下総の房総地域への進出を図っていました。 その動きに対して房総の諸将は連合軍を結成、総大将に担ぎ上げたのが足利義明(小弓公方)です。 房総には里見氏を始めとして、武田氏や土岐氏など源氏の流れを汲む諸将が多く、その源氏の棟梁たる将軍家につながる小弓公方足利義明の元に集まってきました。 このように鳴り物入りで総大将になった足利義明ですが、実はとんだ食わせ者でした。 1538年、房総連合軍は国府台城一帯に着陣し、江戸川の対岸から進軍して来る北条氏綱軍を迎撃する態勢をとりました。 北条氏綱軍も小田原を出て江戸川を渡り、続々と国府台に迫って来ました。 ![]() 国府台から見た江戸川。現在対岸の柴又へは、「矢切の渡し」があります。 北条軍はここを渡って攻め寄せてきました。 しかしながら総大将足利義明は、北条軍を目の前にしながら本陣を離れ、単騎で松戸方面の激戦地へと駈けて行ってしまいました。 全くの猪武者としか言いようがありませんが、結局足利義明は北条軍に囲まれて討死しています。 ![]() 第1次国府台合戦で激戦となった相模台城(松戸)。 この付近で足利義明は討死しました。 元々寄り合い所帯の連合軍にとって、総大将を失うことは、すなわち敗戦を意味します。 房総連合軍は総崩れとなり、諸将は上総や下総へ続々と退却を始めました。 さすがの里見義堯も戦いに見切りを付け、殆ど戦うことなく安房へ退却せざるを得ませんでした。 結局足利義明の1人相撲で終わったのが、第1次国府台合戦です。 時代は下って、北条氏は氏綱から氏康へと代変わりし、里見氏は義堯が引退して義弘へと代変わりしていました。 その北条氏康と里見義弘が同じ国府台で激突したのが、1564年の第2次国府台合戦です。 里見義弘を総大将とする房総連合軍6,000は、再び国府台で北条軍を迎撃する態勢をとりました。 北条軍は北条氏康以下、北条氏政・北条氏照・北条氏邦そして北条綱成と、錚々たる面々で江戸川対岸一帯(現在の葛飾区柴又から江戸川区小岩付近)に進出して来ました。 その北条軍は、里見軍を大きく上回る約16,000の大軍です。 北条軍の遠山綱景(江戸城主)や富永直勝(葛西城主)は、先駆けして江戸川を渡り、国府台へと攻め上がって来ました。 ところがこの北条軍の攻撃を見た里見軍は、逃げるように退却して行きました。 実はこれが里見義弘の作戦で、勢いづいて国府台の急斜面を登ってくる北条軍を十分に引き付けた後で、一気に反撃に出ました。 この作戦は見事に的中し、北条軍は遠山綱景が討死して敗退を余儀なくされています。 数に劣るはずの里見軍を相手に、局地戦ながらまさかの敗戦を喫し、さすがの北条氏康も一時は全軍撤退を考えたようです。 一方国府台に引き上げてきた里見軍ですが、初戦の華々しい勝利、そして正月で寒いとくれば、熱燗の登場です。 こともあろうに夜は酒宴となって美酒に酔い、完全に無警戒でした。 (北条氏康を相手にあり得ない油断です) 初戦の敗退で意気消沈の北条軍でしたが、この好機を北条氏康が見逃すはずがありません。 夜間行軍で「地黄八幡」北条綱成を里見軍の背後へと回らせ、夜明けと共に一気に背後から襲いかかりました。 まだ酔いが醒めないうちに、防御が手薄な背後を襲われた里見軍は、ろくな戦いもしないままに大混乱に陥りました。 北条氏康はさらに好機を逃すことなく、一気に全軍を渡河させて攻勢に出ました。 浮き足立った里見軍は、名立たる武将を次々に失って、大敗北を喫しています。 ![]() 国府台城にある里見諸将の慰霊碑 房総の命運を賭けた国府台の両合戦でしたが、1回目は総大将の1人相撲、2回目はあり得ない油断と、拍子抜けする理由で幕を閉じました。 同時に北条氏康と里見義弘の格の違いを見せつけられた戦いかも知れません。 【関連城跡】小弓城、国府台城、相模台城 |
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